行雲流水

 終戦直後の食糧難の頃、雨が降ると増産休業で学校は休みになり、小学生たちもンムー(イモ・甘藷)植えを手伝わされた。世はインフレで、月給がイモ十斤にもならない時代であった▼フサヌ・ンムー(畑の土の中から芽を出している落ちイモ)を集め、ンムーヌス(イモをつぶしてこねたもの)にして食をつなぐ人々も多かった▼ところで一九六八年、初の主席公選の際、保守陣営が「即時無条件全面返還を掲げる屋良朝苗が勝つと沖縄は昔のようにイモとはだしの生活に戻る」と宣伝した。これは当時のアンガー高等弁務官の発言に由来するのだが、これが世に言う「イモ・はだし論争」である。「イモ=貧困」のイメージがある▼四百年前中国から甘藷を持ち帰り、多くの人々を飢えから救った野国總官の偉業をたたえる「甘藷伝来四百年祭」が先月三十日を皮切りに嘉手納町で開催されている。いつの時代もイモは人々を飢餓から救った▼ところでわが宮古でも、長真氏旨屋(ちょうしんうじしおく)(砂川親雲(ぺーちん)上旨屋)、河充氏真逸(かわみつうじしんいつ)の家譜によると、両氏が首里王府での公事を終えての帰途遭難し、中国に漂着した。三年後一五九七年帰島にさいしてイモカズラを持ち帰り、島中に流布した▼野国總官が沖縄にもたらしたのは一六〇五年だから、家譜の記述が正しければ旨屋らが持ち帰ったのは、その八年も前ということになる。ともあれ「サツマイモ」(薩摩芋)として全国に知られる甘藷は本県が初出であること、また「イモ=命」であったことを忘れてはなるまい。

(200510/07掲載)

top.gif (811 バイト)