行雲流水

 人間は言葉を基本に、情報を伝達するだけでなく、抽象的な思考によって深く世界を捉えることができる。その典型は数学で、数学は抽象的な思考による論理の構造物である▼小川洋子の著書『博士の愛した数式』がおもしろい。「数学」に彩られた生活が、一人暮らしの博士と、家政婦とその息子によって繰り広げられる。常識にとらわれずに新しい真理を見つけることの象徴だろうか、博士は言葉を逆に言うことが好きである。例えばオカシはシカオとすぐに言える。また、一番星を見つけることが得意である▼博士は交通事故の後遺症で記憶が80分しかもたず、生活には事欠くが、事故以前のことは記憶に残っていて、数学のことは話題にできるし、研究ができる。例えば、「0」の発見の偉大さを説明する。虚数についてはその抽象性を、それはここにあると胸に手をあてる▼満足できる解答を導きだしたときの感じは、喜びでも開放感でもなく「静かさだ」という。いつしか博士の世界に引き込まれた家政婦は図書館で博士のメモにあった公式を調べる。そして、「オイラーの公式は暗闇に光る一筋の流星だ、暗黒の洞窟に刻まれた詩の一行だ」と感ずるようになる▼フェルマーの最終定理の証明は、3世紀にわたって天才たちの挑戦を跳ね返してきたものだが、1993年、ワイルズによって証明された▼純粋に真理の探究にあたることの喜びと厳しさ、尊さと美しさが伝わってくる。ちなみに、この本は昨年の全国読書感想文コンクール(高校の部)の課題図書である。

(2005/02/23掲載)

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