行雲流水

  牧港篤三氏が初めて新聞記者になったのは1936(昭和11)年で、戦後は沖縄タイムス社の設立に参画している。1950年には、同社が出版した『鉄の暴風』の執筆に当たり、苛烈な沖縄戦の実相を住民の側から告発している▼氏の 60余年の新聞人としての人生で出会った多くの県内外の文化人の印象やエピソード等をまとめた著書『沖縄人物シネマ』がこのほど出版された。社会の変化は制度的なものの改革によることが多いが、特に文化的な側面は「人」による影響が大きい▼典型的な例は、民芸運動の創始者である柳宗悦である。柳氏は昭和10年代に沖縄各地の民芸を調査、優れた「琉球の富」に魅せられる。方言論争でも知られる氏は訴える「沖縄を開放するのは、沖縄の文化価値に関する自覚と自尊心である」。戦後米統治下にあっても固有の文化の復興に努める沖縄の人々の理論的、精神的拠りどころとなったと、著者は指摘している▼生活が落ち着くと、孤立状態にあった住民にとって、ヤマトへの憧れは自然なものであった。その頃、文化講演会に招かれた講師たちの個性が興味深い。戦後宮古での講演会といえば、まずは鰺坂二夫教授の講演であろう。市民と共に多くの高校生も参加したものである▼忘れてはならない 1人が中野好夫氏である。氏は本土に於いて沖縄の戦後を語る資料が何一つないことに気づき、資料を集めて『戦後資料沖縄』を出版、沖縄問題を訴えた▼「人」を通して身近な歴史を振り返ることの大切さを気づかせてくれる著書である。

(2004/09/29掲載)

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