(スゥル)いどぅ美(カ)ぎさぬ世や直れ
宮古支庁三線同好会

宮古民謡は先祖からのメッセージ
 

 庁舎内に響く午後五時十五分のチャイムが終業を告げる。大方の職員がいそいそと帰宅準備をする中で、何やら、黒塗りのケースを持って二階会議室に向かう職員たちがいる。そう、これから三線の練習があるのだ。宮古支庁三線同好会が発足したのは昨年五月。呼びかけたのは講師でもある支庁長の兼城克夫さん。昨年四月に赴任し翌月から始めた。最初九人でスタートしたメンバーは今や三十八人となり、きょう三十日に行われる第十四回宮古民謡コンクールには八人が新人奨励賞に挑戦するなど、その成長振りは目覚しい。講師の兼城さんは「宮古民謡の内容を深く掘り下げていくと、人頭税のころから、天災・人災を生き抜いてきた先祖の魂の叫びが聞こえる。時空を越えて今のわれわれに何かを伝えようとしている。宮古民謡が唄われている限り、不屈の先人の魂は消えない」と話す。
 (佐渡山政子)
 


教室ほどの会議室で練習する会員

  

    講師で支庁長の兼城克夫さん

 保育園帰りの琉祥くんと砂川美恵子さん
  
 
    

          平良マサエさん

  
       川田正明さん

 
200年前、強制移住させられた伊良部島に悲劇の橋が架かる。久松側から仮桟橋の作業が始まった


 学校の教室ほどもある広々とした会議室で始まった練習は、まずチルダミ(調弦)から。唄う曲によって本調子とか二上げとかに調整しないと唄に入れない。自分で調弦ができたらもう一人前。なかなかうまくいかなくて講師の手を借りる職員たちも多い。方々でばらばらに音を調整していた室内は、講師の合図で波を打つ。ツンテントンタンタと前奏が入り、「今年(クトゥス)ーカーラ 始(パーズ)ミャーシーヨー…」と豊年のうたを唄いだすと、もうそこは宮古民謡の世界。「ミルクー世(ユー)ヌー 実(ナウ)ラバヨーヤナウレ…」。そこには一糸乱れぬ三線の音色と、うら悲しい唄が先祖のメッセージとして辺りを包む。

 (揃いどぅ美さ)
 宮古民謡を代表する「豊年のあやぐ」は、その年の豊年を祈念する農民の希望を唄ったもの。十三番まであり、「今年まいた粟が、十月蒔いた穀が」「粟俵を立たせ、穀俵を背にして」「地頭を御伴し、目差主を招待して」「す玉のように実のらば、真玉のようにできたら」「粟のお神酒を作り、穀のお神酒を 作って」「昼七日間飲み遊ぼう、夜七日間飲み遊ぼう」と唄い、最後は「揃(スゥル)いどぅ、美(カ)ぎさぬ世や直れ」(繰り返し)と続く。
 講師の兼城さんは、民謡歴二十四年。中学のころまで多良間島で育った環境が、先祖の魂を唄った民謡へと駆り立てた。現在、在沖宮古民謡協会と琉球民謡音楽協会の教師。ところが、十五年前から、宮古民謡の歌詞がおかしいと思い始める。何かを秘めている、あるいは何かを訴えようとしている、そして、時代とともに創作されている、でも、何でそんなことをする必要があったのか。考えれば考えるほど思いは深みにはまり、とうとう宮古の歴史を掘り起こす作業を始めた。今では、優に一冊の本ができるほどの資料を集めた。

 祖先の不屈の魂
 時代は一六〇〇年代、一六〇九年に薩摩の琉球侵攻後、宮古の税制は一一年から三六年まで地租税、三七年から一九〇二年まで人頭税となるが、その間の三百年というのは役人の横暴な振る舞い、併せて台風や干ばつといった天災による飢饉(ききん)、熱病に打ちひしがれた最悪の時代だったといえる。また、一六〇〇年代に一万人足らずだった人口が一七〇〇年代に入ると二万人を越え、この人口急増に伴って新村の村立てが始まった。このころ、強制移住させられた人々の唄が民謡として残されている。兼城さんは「天災、人災を生き抜いたわれわれの先祖が、どん底の生活の中で、その思いを唄に託し、励まし合ってきたということを忘れてはならない」と話し、「兼久畑」や「長山底」を例に挙げた。
「兼久畑は、沖縄の方言で荒地という意味。一番のカニクバタ、抱き見いぶすブナリャガマが私にとっては不可解だった。歴史を調べていくと、新村を造るという強制移民に不満を持った農民の、横暴な役人へのやゆだと理解することができる。農民たちは役人に盾突く事ができないそのやり場の無さを、唄に託し、ナニクソ僕たちだって同じ人間なんだ、という思いを唄の中で他には解らないような微妙な表現で役人をからかっている。そんな一枚も二枚も上手な人たちがわれわれの先祖なんだということを、みんなに分ってほしい。そのためにも、元唄の本当の意味を知るということは、これまで封印されてきた過去の出来事を解決していくことにもつながる」と熱っぽく語る

 (二百年前の悲願)
 伊良部架橋の実現もめどが付いた。兼城さんは「六年前、伊良部架橋選定委員会で、橋が久松から長山というコースに決まった時、民謡の「長山底」を思い起こした。そして、そのコースは宿命だと思った。二百年前、野崎(久松)は、強制移民で長山に渡っている。今は悲願三十年の橋が架かると喜んでいるが、実は二百年前の強制移住させられた農民の想いが今実現するのだと、心密かに喜んでいる。そして、橋が架かった時には、橋詰広場に「長山底」の歌碑を建立し、その子孫を先頭に渡り初めをすべきだと思っている。この唄も下里に奉公に行った伊良部の若者が主人に対し、郷里長山の自慢をしている唄だが、その中身はそれとなく主人を挑発しているともとれる。そして、時代によってまた創作されている部分もある」と解説する。

 (同好会の活動)
 会員が膨らんだことで、練習日を週二回にした。月曜日が昨年から入ったAグループ、水曜日が今年からの会員でBグループ。練習曲は「豊年のうた」や「安里屋ユンタ」「なりやまあやぐ」「中立ぬみががま」「祝節」「上がり口説」など。昨年の活動は、宮古病院の納涼祭や宮古の産業まつり、地下ダム資料館落成式、農村総合整備研修会などに出場。次第に腕を上げている。
 今年の四月から入ったという川田正明さんは浦添市出身で宮古福祉保健所に勤務する。入った動機は「両親が宮古の島尻出身で、宮古民謡に興味があった。とても楽しい。来年は頑張ってコンクールに挑戦したい」と話した。また、同じ保健所に勤める平良マサエさんは「今年五月から入った。もちろん、三線を習得するのが目的ですが、兼城先生の唄を聴くのが楽しみで入った」と心情を明かした。総務・観光振興課に勤務する砂川美恵子さんは、息子の琉祥くん、カの手を引きながら参加。「静岡の出身ですが、父が伊良部で宮古民謡に関心があった。子どもが小さいので練習時間があまりないが、とても楽しい」と話す。
 一日の業務をこなし、疲労困憊(こんぱい)のはずなのに、その重い身体を趣味の教室に向けるということは、それなりの思いがなければ続かない。同好会の大城健会長(名護市出身、農林水産整備課)は、「逆に仕事から離れ、気持ちを白紙にできるという点で気晴らしにもなる」と話す。今日、コンクールに挑戦するのは、野原勝さん、屋良麻紀子さん、大城健さん、親川榮喜さん、比嘉正輝さん、中島功さん、名嘉真清美さん、池間早苗さん。キバリヨー、アグガパナ・ドゥスガパナ!
 

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