島を挙げ 繁栄願う

きょうから「多良間島の八月踊り」

 国指定重要無形民俗文化財となっている「多良間島の八月踊り」が旧暦八月八日に当たるきょう十一日、多良間村字仲筋の土原御願所で始まる。祭りは島の繁栄と村人の健康を感謝し、向こう一年の五穀豊穣を願うもの。古い伝統の民俗踊りに、琉球王府の流れを組む組踊りが加わったとされる。祭りの三日間は字仲筋と字塩川の二つの会場で、組踊りや棒踊り、民俗踊り、ヨウイシー、二才踊り、狂言劇、寸劇、歌劇、舞踊などが次々と披露され、観光客もどっと来島し、まさに「祭り一色」となる。今回は八月踊りの中で仲筋で二つ、塩川で二つある組踊りのうち、宮古の歴史物語を劇化した組踊「忠臣仲宗根豊見親組」を、多良間島出身でその歴史に詳しい渡久山春英さん(元学校長)に解説していただいた。(砂川拓也記者)



「多良間の八月踊り」で宮古の歴史を劇化した組踊「忠臣仲宗根豊見親組」の一場面=字仲筋の土原ウガン
 

組踊「忠臣仲宗根豊見親組」 

渡久山さんが宮古の歴史物語を解説

宮古の歴史を伝える組踊
 一五二二年、琉球王府は宮古に与那国を攻めるよう命令した。写真は宮古島主仲宗根豊見親の率いる宮古軍勢と、与那国軍勢と相対している場面である。両軍とも戦闘の意志はないようだが、嵐の前の静けさといったところである。写真奥の上段にはメーンタイトルの「偕楽」の扁額が見える。納税の皆納を共に楽しむという意味だそうだ。額の両側には琉球国の「むかで旗」がある。さらにその奥は歌・三線の地方の皆さんの席である。

登場人物
 登場人物を紹介しよう。向かって左列の手前から仲宗根豊見親、金盛豊見親、金志川豊見親、祭利金豊見親、那喜太知豊見親、知利真良豊見親、土原豊見親である。向かって右側は手前から与那国の鬼虎、部下の原ただ、与那筑、富元である。舞台中央の女性は手前がオーガマ、奥がクイガマである。舞台前方の人物は船頭の船筑である。宮古から酒・肴を持参したところである。最年少の土原豊見親はただ一人青い着物が見える。オーガマ・クイガマはおそるおそる座っているが、勝ち戦の立役者となるのである。

尚真王より命受け与那国討伐を計画
 物語について。尚真王より名刀治金丸をいただいた仲宗根豊見親は、村々の豊見親を呼び集め与那国攻めの計画を告げる。集まった豊見親たちは、仲屋金盛を中心に与那国攻めの作戦を練る。鬼虎は身の丈一丈(三b)余り、武勇に勝れ八反帆の船を持ち上げる程の怪力の上、酒好きである。そうだ、美女を連れて行こう。楊貴妃や小野小町にも劣らぬ美女が砂川村にいることをつきとめた。オーガマ・クイガマ姉妹に白羽の矢が立ったのである。豊見親の使者は砂川村へ飛んでいき、姉妹に与那国行きの話を伝える。

オーガマ・クイガマ両親と涙の別れ
 オーガマ・クイガマが平良への道中、歌・三線は道行きの哀調の「干瀬節」を奏でる。はるか与那国への旅立ちの淋しさを引き立たせるのである。「今出じる我身や砂川村オーガマ・クイガマどぅやゆる。大主ぬ御急用てあいお使いぬあとぅてぃ登てぃ行ちゅん」(私たちは砂川村のオーガマ・クイガマでございます。豊見親の急用があるとのお使いがあって平良へ行くところです)。道中、大武峰やスゥヌリ山を見ながら、日暮れ頃豊見親の居城に着くのである。
 年老いた両親がいるので与那国行きは断るのだが、聞き入れてくれない。とうとう説得に応じ与那国行きを決断する姉妹である。いよいよ出発の日が来た。祥雲寺を拝み漲水港を出港するのであるが、その前に両親との別れがある。娘二人と死出の旅の別れである。恋しい母の匂いのする着物を二人の肩にかけてやる母であった。歌・三線は「伊野波節」である。「生き別れでんすかに苦しゃあむぬ、嵐声ぬあらば我身やちゃしゅが」(生き別れさえもこんなに苦しいのに、万一嵐でも来たら私はどうしよう)。母の嘆きの歌である。航海安全を願う母であった。

仲宗根豊見親ら与那国征伐へ
 一方与那国では雨続きの天気も晴れて、屋外で楽しんでいた。酒盛りは勿論のこと歌詠みにも興じていた。山部赤人や山上憶良等も負ける程の傑作だと自画自讃するのである。その酒座に乗り込んだのが宮古勢である(写真)。オーガマとクイガマの華麗な舞いと酌に酔いつぶれた鬼虎は、千鳥足になっていた。今だ、仲宗根は采配を振った。「土原と金志川は我と共に玄関から踏み込め」「合図の太鼓を打たば一同攻めかかれ」。
 宮古軍勢は歌と踊りで凱旋するのである。「今日ぬふくらしゃやなうにじゃなたてぃる、ちぶでぃうる花ぬ露ちゃたぐとぅ」。

原作者は不明琉球の栄華再現
 この組踊の原作者は不明だが、万葉歌人の名前を挙げたり、世界三大美人を挙げたり、与那国を難攻不落の「唐の蜀の桟道」に例えたりするなど、学識の高い作者であったように思われる。また、玉城朝薫の「二童敵討」に出てくる女装の二兄弟が、アマワリの前で舞を見せて誑かすあたりは、オーガマ・クイガマとそっくりである。このことを考えあわせると作者は、首里王府の役人か流刑人が多良間に在住していたと思われる。とにかく、短詩形の台詞は琉歌調であり、琉球王府の栄華を再現しているようでもある。
 写真の左側は塩川、右側が仲筋のお客さんとするのが慣習である。中央は招待客・観光客用に準備される。
 この祭場は土原豊見親の先代からの屋敷跡だといわれている。古木・大木が歴史の重みを感じさせる。終日太陽の光を気にしない境内である。今年も八月踊りがやってきた。故郷の原点は「祭り」かもしれない。

渡久山氏プロフィル
 渡久山 春英(とくやま・しゅんえい) 1936(昭和11)年10月18日生まれ。多良間村字仲筋出身。宮古農林高校、名城大学農学部卒。60年4月、多良間村立水納中学校に教員採用。宮古の離島と与那国島に21年、宮古島内に16年在職した。97年3月、多良間村立多良間小学校校長で定年退職。


 写真説明(上)・八月踊り直前になると夜遅くまで練習が行われる(資料写真)

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