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今年もワイドーの声援を!

全日本トライアスロン宮古島大会

今昔を振り返る

 今年も、宮古島が一番熱く燃える日がやってきた。エントリーする選手は外国から57人、地元の68人を含めて1500人。それぞれが限界に挑む感動のドラマを演じ、観衆を魅了するに違いない。地域が一体になるスポーツの大イベントは19回を迎えた。

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・第18回大会水泳スタート風景

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・第1回大会水泳スタート風景

 
▽初開催までの経過
 宮古島大会は、第1回大会前年の1984年から始まった「ワイドー・ワイド運動」に起源がある。宮古の経済自立を目指す同運動の仕掛け役は宮古広域圏事務組合(当時広域市町村圏協議会)。活力ある島づくりの具体的な取り組みを模索しているところに、宮古島東急リゾートからハワイアイアンマンレースのビデオテープが事務局に持ち込まれた。見た当初は「トライアスロンが競技として成り立つのか」「大会運営は可能か」など疑問の声も。しかし、84年9月には意思統一ができ、ハワイ視察に行った。
 同年11月15日に観光振興シンポジウムが開かれ、トライアスロン開催の機運づくりに成功。同27日に実行委員会が結成され、島を挙げた取り組みが動き出した。
▽第1回大会の様子
 1985年4月28日の午前7時、下地町の前浜ビーチで3キロの水泳がスタートした。出場者数は241人(男224人、女17人)。バイク(136キロ)、ラン(42・195キロ)のコース沿いには、住民が詰めかけ「ワイドー・ワイド」の声で応援した。
 各競技の運営や医療救護、食料、エードステーション、アトラクションなどのボランティアには約3800人が携わった。
 大会の模様は、全国61社から約300人の取材陣が来島し報道した。中でも、NHKは通信衛星を使って4時間にわたり全国に実況中継。これが宮古島大会の知名度アップに貢献したと言われている。
 ゴールに最初に飛び込み第1号の「ストロングマン」の称号を受けたのは中山俊行さん。制限時刻の午後11時前、最終ランナーの榊原良明さんが、多くの人の声援をバックに競技場に入ってきた。
 当時、市町村圏協議会の事務局長を務め大会を仕切った長濱幸男さん(平良市建設部長)は「何もかもが初めての経験だった。無事終わった時は、感無量だった」と、当時の心境を話す。
▽現在へ
 第1回大会の申込者数は310人。その後は年々増え11回大会には最高の3264人を記録。18回は不況の影響か2500人台に減少、さらに今回は前回を約500人下回る2023人となった。
 出場者定員は、第1回が248人。申込者数の増加とともに増やし5回が700人、10回1200人、12回1300人、14回1400人、15回から現在まで1500人をキープしている。
 ボランティアは第6回大会から毎回4800人が従事し、大会を支えている。第1回大会に17人だった地元選手は、今回は68人と大きく増えた。
 宮古島大会は、人・地の利を得たイベントと言われる。平坦な地形は長距離レースに向き、沿道の応援、多くのボランティアによる大会運営は選手に感動を与え「また出たい」との思いにさせるという。トライアスロンの専門雑誌・TJ(トライアスロン・ジャパン)の2003年4月号では宮古島大会が「出場して良かった大会」の1位に選ばれた。
▽波及効果
 大会の前後には選手や取材陣、観戦者などを合わせ約2500人が来島する。事務局が18回大会の選手を対象に実施したアンケート調査によると、宮古で使った金額は1人平均6万5000円(宿泊費除く)となった。このうち、土産品が2万2000円と大きな割合を占めた。
 また、多くの報道陣による宮古島のPR効果は、計り知れないと言われる。この効果もあり、宮古島を訪れる観光客は年々増えてきた。
▽表彰
 トライアスロン大会を成功させた宮古広域圏事務組合は、優良団体として次の賞を受けている。
 ▽ソフト化賞(88年)▽国土庁長官賞(同)▽自治大臣賞(89年)▽自治大臣表彰(96年)▽日本生活文化大賞(97年)


kagi030420-2.tif (137560 バイト) 「無事成功は感無量だった」
 
 第1回大会の事務局長・長濱さん

 
 長濱幸男さん(平良市建設部長)は第1回大会のとき、宮古広域市町村圏協議会の事務局長を務め、大会の成功に力を尽くした。
 「無事成功に終わったとき、どんなお気持ちでしたか」。
 「感無量ということなんでしょうね。何しろ、初めての取り組みでしたからね」。重責を全うした当時の喜びが伝わってくる。
 長浜さんが事務局長に就任したのは1983年。最初の仕事は官民一体となって産業興しを目指す「地域活性化計画」づくりであった。同計画の愛称は、現在も多くの住民から親しまれている「ワイドー・ワイド運動」。トライアスロン大会は同計画の目玉に位置づけられ、実施されることになった。
 「夜の12時前に帰宅したことはなかった。しかし、無我夢中だから苦労とは考えていなかった」。仕事一筋だった。
 準備段階では特に「人の安全」、「イベントを盛り上げる雰囲気づくり」「資金集め」に力を入れたという。
 「資金集めは琉球新報が協力してくれた。NHKが全国放送することになり、ムードを盛り上げた。東急リゾートもできたばかりで、宿泊施設も整った。タイミング的にも良かった。何よりも、地域のまとまりが成功の原動力だった」と、振り返る。
 今後に向けては「ワイドー・ワイド運動は、知恵をしぼって自立していこうというのが原点。現在は、第1歩のトライアスロンが軌道に乗り、観光客も増えた。次は観光客に何を売るかが大事になる。地域の素材を生かした土産品の開発に進む必要がある」と話した。
 

 
kagi030420-3.tif (126688 バイト) 「がんばれ、地元選手」
 
 第1回大会に出場した狩俣さん

 
 狩俣直司さん(44)は第1回大会で総合9位、県内1位の成績に輝いた。総合タイムは8時間56分。同大会を特集した雑誌は「場内アナウンスが『九位に地元宮古の…』と放送した途端、ウォーと絶叫がうねった。狩俣直司選手のゴールだ」と、会場の興奮の様子を伝えた。インタビューを受けて「沿道の応援がなければ棄権していた」と、苦しかったレースを語った。
 「島を挙げての初めての大スポーツイベントだった。地元参加も欠かせないため、長距離選手は半ば強制的に参加を押し付けられた。私の場合はスポーツをやってきて、その集大成との気持ちがあった」と話す。
 練習を重ねていざ本番となったが、思うように行かず途中では力が抜けた瞬間も。その時、誰かから缶コーヒーの差し入れがあり、これで息を吹き返し見事に完走を成し遂げた。「あのコーヒーがね…」。宮古島の人の温かさを彷彿させる。
 同大会はNHKによって全国に実況中継された。狩俣さんは同年、1回大会の成績を買われて北海道のマラソンの招待されたが、同放送の波及効果を実感した。「多くの選手が宮古島大会のことを知っていた。これが宮古の宣伝になり観光客増加にも結び付いた」と思う。
 今後に向けては「宮古の選手は外に出て体験し、意見も聞いてほしい。それによって磨きがかかる。後輩の皆さんには頑張って大会を盛り上げていってほしい」と話した。

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