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物流の拠点1万7000隻が入港(2002年)


平良港 昔と今

kagi030316-rogo.tif (31814 バイト) 池間、宮古、伊良部島に囲まれるように位置し、波が穏やかな平良港。立地条件に恵まれた同港は、古くから宮古第1の物流拠点として宮古の経済を支えている。現在、働く人の数(運輸関係のみ)は約180人。同港の貨物は宮古全体の入出荷量の99%を占めるという。復帰以降は国と平良市の力入れによって、大型フェリーが就航し、港面積も以前の約9倍と広くなった。02年は、約1万7000隻が入港した。

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      空から見た現在の平良港一帯

 平良港は古くは漲水港と呼ばれ、1390年ごろから、首里王府に税を納めに行く船が利用していた。1879(明治12)年ごろ汽船が入り、明治40年代からカツオ船の利用が増えた。
 1913(大正2)年には、西里の商人組合が突堤や荷揚場を造り、沖に停泊した船と往復するはしけ(50トン程度)荷役を始めた。入港船(沖停泊)はだんだん大きくなり、大正末期に宮古丸(1500トン)、35年ごろに湖南丸(2500トン)が就航していた。
 太平洋戦争後は、当時の市長だった石原雅太郎氏が平良市の3大事業の1つとして、港湾築造を位置づけ、1000トン級の船が接岸できる桟橋が53年に完成。同桟橋を利用した最初の定期船は「みどり丸」(302トン)であった。
 沖縄が本土に復帰した72年には、平良市を管理者とする重要港湾に指定された。以降、水深を深くする浚渫(しゅんせつ)工事や用地造成工事が着々と行われ、76年には5000トン級が停泊できる第4ふ頭が完成。82年に危険物などを取り扱う第1ふ頭ができ、85年には既設の第2ふ頭が1万トン級バースに機能をアップし、供用を開始した。
 復帰前に3・8ヘクタールだった港は現在は35・4ヘクタールと約9倍に拡大した。
 貨物の取り扱い高は、71年が23万200トン。約30年後の2002年が148万7000トンと約6・4倍に増え、復帰以降の宮古経済の発展ぶりを示している。入って来る貨物はジュースやビール、チリ紙、発電用の重油、ガソリン、ガス、セメント、肥料など宮古で使われる物資のほとんど。宮古からは、牛や野菜、砂糖、黒糖などが出て行く。
 那覇・宮古間の船の利用者数をみると、71年には3万8000人が乗り降りした。しかしその後、飛行機に客をとられ、2000年は1万2000人と、3分の1に減った。復帰前まで平良港付近は港町として栄え、旅館などが建ち並んでいた。
 第4ふ頭は、伊良部島との往来に利用され、活気にあふれている。

将来のテーマは「観光支援」/
       漲水地区の再開発計画


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  漲水地区の再開発イメージ

 平良港湾工事事務所(親泊正孝所長)は、将来の整備テーマに「観光支援」を掲げ、漲水地区の再開発や「海中公園」などを計画している。
 漲水地区の再整備は、第2ふ頭と第3ふ頭の間を埋めて、その先に4、5万トン級のクルーズ船が接岸できる岸壁を造る。2001年に台湾からクルーズ船が就航したが、航路の狭さなどがネックになり、運航を中止した。現在、航路は以前の150メートルから250メートルに拡幅され、港入口も北の防波堤を60メートル撤去し広くしたため入出港が容易になった。この後、漲水地区の再開発で、深くて長い岸壁が出来れば支障がなくなり、国内外からクルーズ船が就航すると期待されている。
 同ふ頭には、地域イベントに活用できる緑の広場が計画され、また、阪神大震災の教訓を受け、耐震バースの整備も喫緊の課題となっており、地震防災の拠点として位置づけることも検討している。このふ頭の供用開始は10年後を目指している。
 海中公園は、防波堤の建設現場にあるサンゴを別の場所に移して育てる、環境に優しいプロジェクト。現在もサンゴの育成は行われ、回りに魚たちが集まるようになった。将来はこれらのサンゴを集めて公園化し、グラスボートで、海中展望が楽しめるようにする。
 「観光客や地元の皆さんが、平良港に来て楽しんでもらう」。これが、平良港の目指す将来像だ。
 どうしたらそういう魅力的な港ができるか、民間の意見を取り入れるため、同事務所と平良市港湾課は「平良のみなと女性フォーラム」や「平良のみなと―街づくりを考える会」を開催・支援している。
 宮古の観光支援では、すでにコースタルリゾー地区で人工ビーチ、マリーナが建設されており、今後は市民と一体となった「みなと・街づくり」へと進んでいく。

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 コースタルリゾート地区の人工ビーチから眺める夕日は美しい。12日は家族で散歩する姿が見られた

荷役作業 人力から機械に変わる/楽、スピード化
 
kagi030316-6.tif (205992 バイト) 以前人力に頼っていた荷役作業は、現在は機械化され楽になった。輸送形態もバラ積みからコンテナに変わり、スピード化した。
 今から30数年前まで、宮古には宮古丸(1000トン)や八汐丸(800トン)が就航し、早朝入港していた。積載貨物は500―600トン。作業員らはバラ積みされた貨物を仕分けしてパレットに載せ、ウインチ(船の揚貨装置)で陸に揚げた。当時セメントは袋に詰めて船積みされ、これが大量に入った時は大変な重労働だったという。1隻の荷役作業には約40人が従事し、終わるまでに10時間ぐらいかかっていた。
 13日午前10時半ごろ、8000トンの貨物船が入港した。間もなくして船首と船尾の扉が開くと、作業員らはフォークリフトを繰り出し、てきぱきとコンテナを運びだしていた。降ろした貨物は、多種類の生活物資や建築資材など。宮古からはカボチャ、トウガン、泡盛、牛などを積み込んだ。
 同船は約2時間半で約700トンの貨物の積み降ろしを終わり、午後1時すぎに平良港を出港した。
kagi030316-5.tif (203864 バイト)kagi030316-4.gif (54278 バイト) 宮古港運に30年勤める砂川弘光さん(54)は「以前の荷役は重労働で足も突っ張っていた。あのころと比べて、今は天地の差ほど楽。汗をかくこともほとんどない」と、笑顔で話した。
 車があまり無かった時代、平良市西里の商店街への配送は荷馬車に頼っていた。そのうち車が増え、トラック運送に変わった。スーパーには、現在コンテナごと運んでおり、作業が効率化した。以前は、パレットの貨物をトラックに積み、店ではそれをかついで倉庫まで運ぶなど、苦労したという。
 現在、平良港に就航している船は5000―1万トンクラスが5隻、500トンクラスの貨物船が3隻。ガス、セメント、オイルの貨物は、専用船で輸送されている。
 (取材協力・平良港湾工事事務所、平良市港湾課、宮古港運株式会社)

 写真説明(上)・宮古製糖初出荷風景(1960年)。当時砂糖は袋詰めにして港に運んでいた
 写真説明(下左)・現在の港。荷役作業はフォークリフトなどで行われスピード化し、楽になった
 写真説明(下右)・1970年ごろの港。船から貨物を降ろす風景


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