続・花は島いろ

すべては故郷・宮古のために

株式会社サングループ最高経営責任者

狩俣 昌孝さん(49歳)

(東京都在 宮古島市平良字荷川取出身)

 「苦言に聞こえるかもしれません。でもどう思われてもいいから、今こそ伝えたいんです」と、狩俣さんは熱く語る。
 「このままいったら、宮古はどうなるんだろう」と憂えているというのだ。島を離れて三十年が過ぎた。たった一人で創業した会社は東京で自社ビルにまで育った。「親せきに借りた一万五千円だけで上京しました」と笑うが、今となっては印刷業など五つの会社を傘下に収めるサングループの最高経営責任者だ。現在は宮古民謡館の事業展開を進めていることもあって毎週宮古に通っている。
 「宮古の問題点を話す、これは親心です。愛情があるからこそ。あえて厳しい声に耳を傾けてほしい」。年に百回近く宮古―東京便に乗っているからこそ見えてくるものがあるそうだ。
 「僕は今、観光客の目線になっています。機内の観光客の声が耳に入ってきますから。たとえば宮古に行く時の期待感いっぱいの声。帰るときの不満げな声。トーンが違うんですよ」。狩俣さんはリピート率の低さもそこに原因があるのではないかと分析している。
 「都会の目、島の目が握手した時こそ宮古の観光は注目される」。洗練されたサービスを都会から学ぶこと、島だからこそ守り続けなければいけないこと、この二つがポイントだと言う。
 民謡館の立ち上げの話もユニークだ。当初、個人の好みで赤瓦の別荘を造り始めた。しかし「それだけだと自己満足で終わると思ったんです。それで積極的にいろんな人と意見交換をして見えてきたのが、消えていく民謡や伝統文化の行方」。ますます使命感が増した。
 「それがいつの日か、後々にでも宮古島のためになればいい」という気持ちで、別荘として完成していた内装をすべて造り替えた。「宮古島が良くなってほしい、そのために自分ができることがあれば」の一心だ。自社の将来有望な若手を島に赴任させたのもその意気込みからだ。
 また宮古の若い人たちに声を大にして言いたいことがあるという。「とにかく、故郷を離れてほしい。学校を卒業したら都会に出て三年から五年は荒波にもまれてほしい。学生ではなく、社会人として。寂しい時に同郷の人間に群れずにあえて孤独に挑戦してほしい」。
 実は民謡館を一番喜んでいる人がいる。狩俣さんの実母、千代さんだ。終始きまじめな表情をしていた狩俣さんも「母が生きているうちに事業をスタートさせたかった」と顔がほころぶ。
 「感謝という言葉で表せないくらい。少しでもいい思いをさせたい」。狩俣さんが一歳のころ、実父である金一さんが事故で寝たきりになった。残されたのは六人兄弟で男の子ばかり。末っ子の狩俣さんは苦労をしていない母を見たことがなかった。だからこそ三十年間、毎月仕送りを欠かしたことはない。「今も自分の小遣いは二番目」と言い切る。
 話の内容によっては眼光鋭く険しい表情もあった。しかし「宮古を離れてから、ずっとホームシックですよ」と末っ子特有の茶目っ気たっぷりな笑顔が印象的だった。
 狩俣 昌孝(かりまた・まさたか)1957(昭和32)年2月26日、狩俣金一(きんいち)さん、千代さんの6男としてに荷川取の下崎で生まれる。北小、平良中、宮高校定時制課程を卒業後上京。季節工として日産自動車で働き、新宿歌舞伎町を拠点に歌手としての活動を行う。23歳で印刷業関連会社に就職。29歳で独立を果たす。現在、5つの会社を傘下に収めるサングループの最高経営責任者。新宿区戸山町に妻・康子さんとの間に2女。
                                     (菊地優子)

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