続・花は島いろ

本土復帰を駆け抜ける

元県商工会連合会専務理事

仲元 浩一さん(66歳)

(上野字豊原出身)

 本土復帰前年の一九七一年秋の肌寒い日だった。総理府の一室での一幕。「自由貿易地域を認めてほしい」。「自由貿易制度は日本になじまない」。日本政府から各省庁の審議官十数人、琉球政府から知念朝功副主席、砂川恵勝通産局長、随行の仲元さんが出席し、復帰特別措置法の制定に向け、激しい交渉が行われた。仲元さんは同会議に琉球政府側が携えた資料「復帰対策要綱」の通産部門を担当するなど、事務方として歴史の変わり目を駆け抜けた。
 琉球政府の要望事項をまとめた復帰対策要綱の一部は、二日間夜を徹して作成した。交渉当日午前の局議で承認され、同時に随行を命じられた。急な出張で事前業務に追われたため旅行バッグや衣服は女子職員に頼んで購入。運転免許証の更新期限も当日に迫っていたが手続きせず上京した。「自分のことは二の次。まずは県民のために」との思いがあった。
 復帰前の沖縄では、本土の管理貿易と違い自由貿易が行われ、住民は安く外国製品を買える恩恵を享受。ほかに商慣習や税制、社会保障制度などで本土と違いがあり、交渉は激変緩和と本土との格差是正を主眼に進められた。
 琉球政府は具体的に牛肉、オレンジの輸入数量の確保や、輸入製品に対する税の優遇措置、主要道路の国管理、公共事業の高率補助などを要求。交渉のかいあって、輸入制限品目の数量確保、高率補助による社会基盤整備などの復帰特別措置が実現した。交渉の席で仲元さんは都合の悪い場面で反論するつらい役割を担ったが「良い経験になった」と、当時を振り返る。
 復帰後は沖縄総合事務局に職場を移し、元経済企画庁長官で作家の堺屋太一さん(本名・池口小太郎)と出会うことになった。国は当時、沖縄観光振興の起爆剤として沖縄海洋博覧会(一九七五―七六年)を企画。堺屋さんは大阪万博(七〇年)の実績を買われ、沖縄海洋博の責任者(通産部企画調整課長)としての着任だった。布団を雨に濡らしホテル宿泊を余儀なくされた失敗を、海洋博向けのホテル調査に転換したというユニークな発想や、吉永小百合さんとの結婚話でマスコミに追いかけられた出来事、沖縄滞在中にベストセラーの小説「油断」を執筆したなど、まつわるエピソードは尽きない。部下として苦楽を共にした仲元さんは「物事の見方や考え方、発想が勉強になった」と述懐する。
 九四年に退官。県商工会連合会の専務理事を最後に現役を退き、二〇〇〇年から悠々自適の毎日を送っている。後輩公務員たちに「今は公務員に逆風の時代。しかし、そういう環境の中でこそ、意欲のある者は伸びる。委縮していたのでは、良い発想は生まれない。ピンチをチャンスに変える努力をしてほしい」とエールを送る。
 趣味は読書で、本さえあれば退屈しないという。好きな小説は司馬遼太郎さんや山本七平さんの歴史もの。新聞のコラムも数多く執筆。最近は尖閣列島をめぐる安全保障問題に鋭い切り口で迫る論客でもある。
 仲元 浩一(なかもと・こういち)1939(昭和14)年9月22日生まれ。上野字豊原出身。63年琉球大学機械工学科卒業。同年琉球政府入り。69年同通産局工業課企業診断係長。72年沖縄総合事務局通産部企画調整課開発係長。鉱工業開発調整官、鉱業課長、公益事業課長、商工課長などを歴任。94年県商工会連合会専務理事就任。2000年退任する。

                                  (新城孝夫記者)
 

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