続・花は島いろ

創作は故郷・宮古が原点

第28回山之口貘賞を受賞した

久貝 清次(せいじ)さん(68歳)

(平良市鏡原出身)

 「宮古島は自分を生み、育ててくれたお母さん」。ふるさと宮古を原点にした詩画集「おかあさん」が第二十八回山之口貘賞を受賞した。
 「人々の温かさ、青い海、丸い月、きらめく星。そんな素晴らしい母(宮古)が与えてくれたもの(賞)でしょう」と感謝する。
 本職は東京デザイナー学院の講師。画家活動は五十年余続け、個展も精力的に開いている。
 長い画家人生のきっかけは、小学一年生のころに描いた絵だった。この絵が県一位に選ばれ、周りにほめられた。「子供にはそんなことが励みになるんだね」と、絵心の原点を話す。
 高校生の時は家が貧しく卒業が危ぶまれたが、沖映館に頼み込んで、看板制作のアルバイトをし、自力で乗り切るということもやり抜いた。同館で描いた森雅之と久我美子主演の「再会」の映画看板が、処女作となった。
 一九五五年、宮古高校を卒業し上京した。苦しい生活だったが、その中でも描き続け、次々に賞を取り名を上げた。形式は半具象画で、自らは「受画」と呼ぶ。「例えば絵の具を水に溶かすといろんな形が浮かぶ。それを形にする。受画は天から力をもらって描くという感謝の心です」。
 最初の個展は、母校鏡原小のガジュマルの下で開いた。「小学生のころから、その木はあった。枝にぶら下がって遊んだ。『ただいま』という気持ちからだった」と話す。
 小学一、二年生のころ戦争を体験し、爆弾の直撃を受けて飛び散った肉塊や木の枝にぶら下がる内蔵など、悲惨な光景を目にした。「明日は(そのように)死ぬのかね」との問い掛けに「母がアガイーせいちゃんと、抱きしめ震えていたのをきのうのことように思い出す」と語り、目を潤ませた。
 幼いころの体験から得た平和希求の思いは強く、二〇〇一年には浦添美術館で個展を開き、「無関心はいけない。無関心が再び戦争を起こす」と作品を通して訴えた。
 東京に出た当初、似顔絵描きで生計を立てるなど、苦しい生活を送った。その時々に古里の海や空、月、星、アグ、母を想いつつ、自分を励ますためにメモした文を今回詩画集「おかあさん」にまとめた。
 「あいを いきいき うたに えに おもいをこめて かくなら きみも くるしまず けんこう このうえない さあ しっかり するのだ せいしんを そそげば たいそう ちからも ついて てんにも とどこう(以下略)」
 「あ から わ」と題した巻頭のこの詩に、自らを鼓舞する思いが、最も強く表れているという。
 「ねったいの うみ すみわたる うみ そのなかで うまれ そのなかで そだち そのなかで しんで つもりつもって いくおくねん うまれでた しま さんごしょうの しま まぶしい しま ほしの しま うたの しま おどりの しま いのりの しま あぱらぎ しま みやこじま」。この詩の題は「しま」。宮古で育った感性がきらきら輝く。  

 久貝 清次(くがい・せいじ)1936(昭和11)年9月19日生まれ。平良市鏡原出身。55年宮古高校を卒業。同年上京。会社勤めの傍ら絵画創作に励む。58年日本童画会展入選。60年日本宣伝美術会展奨励賞。63年日本橋高島屋宣伝宣研入社。71年絵画作品「プロセス」発表。72年毎日新聞社広告デザイン賞特別展示。77年東京デザイナー学院講師。2001年浦添美術館で個展「平和への祈り久貝清次美術展」開催。04年東京北沢タウンホールで「音楽・ダンス・絵画のコラボレーション」開催。j年第i山之口貘賞受賞。

                                                       (那覇支局・新城孝夫記者)

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