続・花は島いろ

「いつも豊かな気持ちで」

夫婦で食堂「宝隆軒(ほうりゅうけん)」経営

安里 信子 さん( 65歳)
 
(旧姓・島尻、上野村野原出身)

 何があっても、どんな苦境にあっても、明るく振る舞ってきた。「貧しくても心は豊かに持とう」。それが信子さんのモットーだ。
 信子さんは1人っ子。7歳のとき母親が、10歳のときには父親が亡くなり、おじの島尻秀信さんに養育された。母亡き後の父との3年間はパリバンヤー(畑の番小屋)で生活。チョウチンガー袋(麻袋)を被って寝た。小学校へ来ないので、先生たちが代わる代わる訪ねてきて誘ったが、数回登校しただけで、あとは行かなかった。生活、着るもの、それどころではなかった。
 おじさんは群島議員で、6人の子供がいたが信子さんを本当にかわいがってくれたという。
 17歳ごろ那覇へ渡り、国際通りの中華料理店「来来軒」に就職した。熱心に働き、料理の腕も上げていった。その職場で粟国島出身で2歳上の安里隆資さんと知り合った。隆資さんは琉球海運の船乗りの仕事を終えて、再募集を待つ間に「来来軒」に入った。2人は信子さんが24歳ごろ結婚した。
 1966年、夫婦で泉崎に食堂「宝隆軒」を開業。10人ほどが入れる小さな店だった。その場所で14年、移転後、港町の現在の店(約50人収容)で24年になる。メニューは中華料理に、沖縄料理や日本料理も織り混ぜた。
 本土復帰前、経営が非常に厳しく、隆資さんは店をやめるか、しかし捨てるわけにもいかないと悩んでいた。年子の5人の子供を育てながらの経営だった。そんな中でも信子さんは明るさを絶やさず客と陽気に接し、夫を支えた。復帰の年、72年のある日、日本銀行那覇支店の行員たちが客で入ってきた。日本銀行と聞いて沖縄への銀行参入だと思った信子さんは「沖縄には琉球銀行など地元銀行があるから、今から入ってきてもつぶれるよ」と率直に話した。その日から彼らはこの店をよく利用するようになり、小さい店がいつもいっぱいになった。「後から分かったが、日銀那覇支店の皆さんは本土復帰の通貨交換の現金輸送を極秘にしていた。私らが何も知らないことから、安心して店を利用していた」と隆資さんは言う。
 移転後、港町では外人客がよく通ってくる時代もあった。各船の船長グループや機関長グループが来た。上野の野原基地の米国人と会ったことがある信子さんは、単語を並べ、片言片言で冗談交じりにやりとりしてずいぶん気に入られた。あるとき20ドルチップをもらった。見たこともないドル札に驚き「大変だ。私は20ドルで買われるよ」と夫に言うと、夫は「おれが100ドルで買っていると言いなさい」と返答。店は止めどなく笑いに包まれたという。
 店の移転後も日銀那覇支店の支店長らはひいきにし、復帰と同時にお世話になったと感謝状も贈った。「迷惑を掛けないように気を配ってきた。お客にとって居心地の良いものにするために、真心を尽くす。自分が食堂をやったのは正解だった」と信子さん。
 「私は何も難儀とも苦労とも思わない。それは、子供のときパリバンヤーで暮らしたあのときの苦労がバネになっていると思う。チョウチンガー袋で寝たのは、生きるか死ぬかだった。とにかくくじけない。いつも気持ちを豊かな気持ちにして」。
 誰とでも楽しく向き合う信子さんは人気があり、仲間の集まりや在沖上野村婦人会の踊りなどでも中心的に活躍している。

 安里 信子(あさと のぶこ 旧姓・島尻) 1938(昭和13)年4月28日生まれ。上野村野原出身。7歳で母、10歳で父を亡くし、おじの島尻秀信さんに養育される。17歳ごろ上覇、国際通りの中華料理店「来来軒」勤務。24歳ごろ粟国島出身の安里隆資さんと職場結婚。66年夫婦で泉崎に食堂「宝隆軒」開業。80年港町に移転。明るい人柄で、在沖郷友など婦人会でも中心になって活動。子供は2男3女。

                                                            (編集局長・川満幸弘)

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