続・花は島いろ

「お客さんを満足させたい」

牧志公設市場見つめ50年
「川満宝石」代表者

川満 健一 さん(53歳)
 
(伊良部町出身)

 那覇市の牧志公設市場や平和通り、市場本通り街は昔ながらのにぎわいを見せ、まさに「那覇の店」の印象を強くする。その市場本通り街に伊良部町出身の川満健一さんの店「川満宝石」がある。家族で那覇に移住した1954(昭和29)年に父親の方唯(ほうい)さんが開業した。父親の死後、母親のトシさん(伊良部出身)が約15年間守り、92年から健一さんが引き継いだ。
 那覇に移ったとき健一さんは4歳だった。「このかいわいは掘っ建て小屋の店が並んでいた。4歳のころ、宮古の先輩たちとライター売りをやった。どうやってお客を喜ばせようかと、頑張った」と思い出す。その魂は50年変わらないと言う。
 興南高校時代、野球部が甲子園で活躍(4強入り)したとき、健一さんは応援団長として甲子園で数1000人の応援をまとめた経験もある。
 卒業後は、父親のそばで店を手伝い、いずれ継いでいくのだと考えていた。しかし、72年の本土復帰は転機となった。「社会の変化に気付いた。1つの店を持つにも、知識、教養の必要性を思った」。健一さんは百貨店の山形屋に就職を希望し採用がかなった。
 高卒では遅れた入社だったが、上を目指してひたむきに努めた。業務を終えた後、夜遅くまでデータを取ったり戦略を考えたりする日々を送った。九州生産性本部(労働大学)にも入り、経済やマーケティングなども学んだ。「山形屋は、仕事も教え、人間形成も培ってくれる素晴らしいところ。給料は要らないくらいに、あらゆる勉強をさせてくれた」と、大きな収穫に感謝する。
 食品フロアマネジャー、外商部長などを歴任し会社の伸長に尽くした。18年勤続したが、父親なき後に宝石店を守ってきた母親の苦しさと寂しさを強く思うときがあり、家族を守ることを第一義にしようと決意。百貨店勤務を退き、家業を継いだ。
 宝石店では指輪やネックレス、ブローチなどの貴金属を中心に、サンゴなども扱う。商品量は引き継いだ当時の10倍という。98年にはギャラリー「dau(ダウ)」を創立。ダウは、宮古の方言で「たくさん」という意味。琉球ガラスと陶器、紅型などを陳列する。
「伊良部町には親せきがおり、天願ナミ子おばさんは私たちの健康を祈っている。昌一おじさん宅には台風時に避難したことがある。その感謝の念がずっとある」と、郷里とのかかわりを大事にする。
 「感謝を表し、正直に生きる。そういう気持ちでお客にも接し、親や妻にも感謝している。人と付き合い、会話し、喜ばせる。それは生涯続く。お客さんを本当に満足させたい。信頼第一で、いつもお客を下から応援していく」。厚い心情と誇りに満ちたバイタリティーを感じさせた。

 川満 健一(かわみつ・けんいち) 1950(昭和25)年4月20日生まれ。伊良部町仲地出身。4歳のころ家族で那覇へ移住。前島小、那覇中、興南高卒。3年間父親の宝石店で働いた後、73年山形屋に就職。91年まで18年間勤め、食品フロアマネジャー、外商部長など歴任。92年家業の宝石店を継ぐ。98年5月ギャラリー「dau(ダウ)」創立。7人兄弟の長男、妹6人。妻の直美さん(本部町出身)との間に1男2女。

                                                    (編集局・川満幸弘)

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