続・花は島いろ

まだまだ学問の途中

「宮古古諺音義」を発刊した

新里 博 さん(79歳)

hanasima030603-1.tif (124954 バイト) 「宮古には帰りたくても帰れないですよ。まだ学問が途中だからね」と笑顔で話す新里さん。生涯学習の一環である渋谷書言大学講師として論語、百人一首など文学や音声学を講義している。大学の講師も受講するというほどの盛況ぶりである。
 「宮古の人たちにぜひ読んでもらいたい」と数10年にわたる研究の成果をまとめ「宮古古諺音義(渋谷書言大学事務局刊)」を出版した。宮古の古いことわざの音声・意義・語法などについて解説している。共通語の音節と宮古方言の音節との「音声対応表」(50音順)があり、類をみない本に仕上がっている。
 「満14歳で片道の旅費と風呂敷1つで宮古を出たんですよ、学問がしたくて。それにどうしても言葉の姿が見たかった」と学問に燃えていた。
 ムーアンガ(子守姉さん)を頼って東京に出てきたは良かったが就職した先は鉄鋼業の会社。「今のように安全管理とか無いですからね。1日1人は亡くなっいていました。それにいさかいが起こると刃物でブスリ…怖くなってやめましたね」と不安な生活は始まったが、宮古には戻らなかった。花屋に住み込みで働きながら都立大学の付属高校で学んだ。
 「西洋帰りの店主から英語を習ったんですよ。周りも外国人が多くて、フランス人の神父さんと親しくしていました。あのころは手先の器用さを買われてたくさん仕事をしましたよ」と、今で言うフラワーアレンジメントという最先端の技術と語学を修得した。
 そのうちに戦争が始まり、新里さんは陸軍に志願し戦争に赴いた。九死に一生を得て終戦を迎えた。英語が使えた事が功を奏して熊本県庁に推薦され就職。その後、東京で警察官。「警察学校は首席で卒業。すずり箱をもらってうれしかったですね。でも学問したいので辞めたいと話すと同郷の先輩にさんざん怒られてね」。米軍で火薬保管庫の責任者として勤めた後、ホテル経営を皮切りに不動産、建築会社と会社を興した。懸命に働き、会社は波に乗り生活は安定してきた。
 「子供も大きくなったし、ああ、やっと勉強できると思って」。46歳の時、國學院大学の特待生として学び始めた。車を運転して乗り付けた新里さんはいつも生徒ではなく教授に間違えられた。今でも家族の笑い話になっているという。56歳で大学院を卒業。「私の集大成であるこの本を読んでもらいたい。宮古の図書館に置いてもらうのでぜひ読んでほしいですね。私の一生をかけたメッセージです」と真剣に結んだ後に「本当に200年くらい命が欲しいですよ」と笑った。                             
 
 新里 博(あらざと・ひろし) 1923年(大正12)年11月20日生まれ。伊良部町長浜出身。東京都教育庁生涯学習情報システム登録講師。75年國學院大學文学部文学科卒業後、國學院大學大学院で学ぶ。妻・信子さんとの間に1男1女。       
  (東京・菊地優子記者)

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