【終戦記念日特集】  

<2003年08月15日掲載>


 今もなお 大きな傷 〜 戦争体験者たちの声 〜
 
   「戦争は死と悲しみだけ」「2度と繰り返してはならないものは戦争」―。人々から平和の暮らしを奪った戦争は、現在でもなお大きな傷跡を残している。子や家族を失い生きがいを無くした人たち、夫の戦死で路頭に迷った妻、「お国のため」と死を覚悟で戦地へと向かった男たち。そんな戦争の悲惨さを体験したからこそ、平和を希求する思いは強い。きょう8月15日は58回目の終戦記念日。戦争体験者たちの声を聞いた。
 

 
戦地からの頼り 今でも保管
            上野村名加山・ 仲宗根ヨノシさん(86歳)
 
 「君は故郷にありてくわを取り、俺は戦場にて銃を握る。果たす仕事は変われども同じ国のためだ」。
 仲宗根明行さんが、満州事変や支那事変に出兵した際に、戦地から妻のヨノシさんあてに送った手紙の一文だ。
 ヨノシさんは、5通ある手紙を今も大事に保管している。「この手紙が私たちを守ってくれた。私たちのお守りでもあり、宝物」。
 戦地から送られてきた手紙には、常に1人娘のことがつづられている。「ノブちゃんもヨチヨチ歩くと思う。良く良く気を付けて悪い習慣を付けない様に養育してくれ」。
 娘が生まれてから6カ月後に支那事変に出兵。家族3人で過ごしたのもわずか6カ月間だった。
 歩兵軽機関銃手だった明行さんは、常に死と隣り合わせで、ヨノシさんは「いつも覚悟は決めていた」という。
 「ヤマ(ヨノシさんの童名)、君も俺と別れて不愉快な日が続くだろうが、一時の辛抱だ。君がつらければ俺もつらい」。戦地で、わずかな時間を利用して書いた妻への思いが、最後の手紙となった。
 夫の戦死の通知がヨノシさんの元に届けられたのは、手紙が届いた3カ月後の1938(昭和13)年10月10日。明行さん24歳、ヨノシさん22歳、「一粒種」というノブちゃんは1歳だった。
 ヨノシさんは、「覚悟は決めていたものの、戦死の通知を受けてからはしばらくは体の力が抜けて何をする気にもなれなかった」。しかし、夫の力強い手紙に励まされ「夫の分まで長生きしなければ」と思ったという。
 明行さんの命日が近づくと、自然と手紙を読み返すというヨノシさん。「手紙を読むと夫がそばで話をしているよう。読むと必ず夢の中に出てくる」と笑顔を見せた。
 「戦争は、私のような悲しい出来事を生み出す。決して、2度と繰り返してはいけないねぇ」。

 写真説明・夫の明行さんが戦地から送った手紙や数々の勲章が宝物と話すヨノシさん=上野村名加山の自宅で
 

 
幼子抱え防空壕に 伊良部町 長浜・上地タマ子さん(84歳)
 
 1945(昭和20)年の初夏、長浜集落近くの防空ごうで長女(2歳)を連れて避難していた。敵機が現れない時に、自宅に戻り、イモを炊いたり水くみをした。敵機が襲来した時は、親子で石垣の陰にも隠れ恐怖で体を小さくしていた。
長浜御嶽と佐和田御嶽の聖地は、日本兵の陣地となった。蒸し暑い日々が続き、大勢の兵隊たちは上半身裸で行動していた。兵隊の中には、高木に登り、敵機の来襲を見張ったりする人もいた。住民から敵のスパイと疑われていた兵隊が1人いて、住民はその人を恐れ遠ざけていた。
 炎天のある日、長浜集落上空に敵機が数機現れ、民家のコンクリート建て平屋に爆弾をさく裂させた。この家には、妊娠中の女性(24)がつわりできついということで寝ていた。女性と胎児は死に、住民は恐怖と悲しみに包まれた。住民は涙を流しながら、めい福を祈るだけだった。
いつまでも平和の世であってほしい。戦争は2度とあってはならない。戦争は人々が死に悲しむだけである。
 戦後58年を迎えた今でも、あの妊婦の悲惨な光景が思い出されてつらい。

 写真説明・戦争は2度とあってはならないと訴える上地タマ子さん=伊良部町
 

 
◇ 真珠湾攻撃を体験 下地町入江・ 下里玄徳さん(83歳)
 
 1941年12月8日、旧日本軍の真珠湾攻撃が始まったこの日、海軍に所属していた玄徳さんは駆逐艦に乗り込み、真珠湾を攻撃する母船を守るため敵の魚雷に目を光らせていた。「攻撃は3日間ほど続いた。空からも海からも攻撃した。最初は勝っていたが、戦争には負けてしまった」と振り返る。
 20歳の時、自ら進んで海軍へ志願し、長崎県佐世保で軍隊生活を送った。「戦争で死ぬのは名誉なこと。それが本望だった」と国のために敵と戦って死ぬことを潔しとしていた。真珠湾攻撃の後、戦火が激しくなり、「どうせ死ぬなら故郷の地で死にたい」と故郷へ帰ることを決意。人事部へ異動願を出し沖縄本島までは来たが、米軍の戦艦がいたため宮古島へ渡ることはできなかった。本島で米軍に捕虜として捕らえられ、ハワイで雑用をさせられるなどして約2年間の捕虜生活を送った。
 宮古へ戻ったのは28歳になった年だった。翌年に結婚し5人の子宝に恵まれ、孫17人、ひ孫9人も生まれた。
 「戦争に行ったのに生きて戻ったのが恥ずかしかった。今でも恥ずかしく思う」と海軍だったころの思いはまだ生きているが、「孫やひ孫が『おじい、おじい』と言ってくる。そんな風景を見ていると健康で良かったとつくづく感じる。これが幸せだと感じる」と孫たちの笑顔を眺めながら生きている喜びを実感する。夢は玄孫を抱くこと。「90歳まで生きて、玄孫の顔を見るのが楽しみ。それを夢に見ているよ」と笑った。

 写真説明・真珠湾攻撃など当時の様子を語った下里玄徳さん=14日、下地町入江の下里さん宅
 

 

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