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 歴史を垣間見せる財産 

平良・人頭税石

平良 祐明さん
                                          
2005年9月19日掲載

  平良港と下崎方面を結ぶ臨港道路の傍らにひっそりとたたずむ「人頭税石」。琉球王府時代、この高さを超えた人は厳しい税を納めなければならなかったという説もある石だ。最近では多くの観光客が立ち寄る「記念撮影スポット」は、宮古の歴史を垣間見せる大きな財産の一つである。

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臨港道路沿いにたたずむ人頭税石。
最近では多くの観光客も立ち寄るようになった=平良市

50-ishi.jpg (12573 バイト)人頭税石

 1637年、琉球王府が先島に人頭税制を施行。頭数(人口)を基準に税を賦課するもので、役人の見立てで税を納めさせられ、1710年には年齢が基準となった。民俗学者・柳田国男は「海南小記」の中で「ぶばかり(賦測)石」と称し、「この石で背丈を測って石の高さに達すると税を賦課された」との伝承を紹介した。しかし、この石柱がなぜ「ぶばかり石」「人頭税石」と呼ばれるようになったか定かではなく、「人頭税石」のほかにも諸説ある。

taira.jpg (32454 バイト) 「この辺りの海岸はすべて埋め立てられてしまって、昔の面影はまったくないねぇ」
 平良裕明さん(50)は述懐する。自宅は人頭税石から三百bほど。周辺の海は格好の遊び場だった。ポー崎、サッフィ、マダマの浜、パスタンナカ、ウプドゥマーラ、サキナの浜…。辺り一帯の当時の浜や岬の呼称。海岸線の地形まですべてを克明に記憶している。
 「サッフィはきれいな砂浜で大きな海水浴場だった。ポー崎の辺りには魚がいっぱい。パスタンナカは地域の人たちが集まって歌ったり踊ったりする場所。ウプドゥマーラにはコウイカがたくさんいたし、サキナの浜は子供にとっては良い釣り場だったよ」
 少年時代を思い起こし、目を輝かせる。
 高校を卒業して宮古を離れ、故郷に戻ったとき、見慣れた海は元の姿をとどめてはいなかった。埋め立てられ、残ったのは「特に気に留めたことすらなかった、当たり前の風景の中の一部だった」という人頭税石のみとなった。
 遠い記憶を回想しながら、話は自然の中で遊ばなくなった子供たちのことに向かう。「遊びと言えば、ゲームをしたり、テレビを見たり。全国どこにいても同じになってしまった」と寂しがる。「誰の心にも大切なものが内在されているはず。それを伝えないと誰の意識の中からも消えてしまう」と、原風景を子供たちに伝えようと強い意志を見せる。
 平良さんは宮古民謡協会の会長を務めたほどの、腕前の持ち主。人頭税石の話をしていると、「過酷な税に苦しんだ農民が、こうだったらいいな、という理想、悲願を歌った歌」という「豊年の歌」を引き合いに出した。
 「民謡を深くたどると、古い習俗、歴史、当時の様子が分かる。民謡を通してそれらを残したいとも思う」
 周辺の変遷を見守ってきた人頭税石は、宮古の歴史を伝える道しるべなのかもしれない。
平良 裕明さん(たいら・ひろあき) 1955(昭和30)年4月22日生まれ。50歳。平良市西仲宗根出身。平良珠算教室を営む。

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