Welcome to Our Company
Products
定期観光バス
Products
Contact us
About us
News
Contact us
Contact us
東回一周線・平野線 編

● 舟越(フナクヤー)
石垣島で一番幅の狭い所です。東西270mの距離です。昔は漁場を変える時などは、船を担いで渡ったと言われ、この地名(船越)が名づけられたと言われています。

●舟越村と伊原間(いばるま)村

桴海村から別れた人々が金武岳北の半嵩(ハンダキ)と呼ばれた場所に、小さな村を作り「半嵩村」となりました。後に村は、平久保半島の二中(フタナカ)の西岸に移動し「内野村(ウツヌムラ)」と呼ばれました。その村と、近くに仮住まいしていた石垣、登野城両村の百姓と船越の住民も合わせて独立村になったそうです。1734年のことです。

CONTACT US

◇久松五勇士(ひさまつごゆうし)の碑
バス停近くに伊原間公民館があり、その敷地の一角に「久松五勇士上陸之地」の碑が建てられています。
この碑には次の文章が刻まれています。
「明治38年(1905年)5月、日露戦争の時、ロシアのバルチック艦隊宮古島沖通過の事を一刻も早く大本営に通報すべく時の宮古島、島司橋軍六の命により久松出身の五人の青年漁師は刳船に乗り90浬(カイリ)の荒波を力漕に力漕をつづけ石垣島にたどりつき「敵艦見ゆ」の打電をなし大任を果たした。この五人の青年の愛国心勇猛心責任感をたたえ永く記念するために此の碑を建てた。1966年9月久松五勇士顕彰碑建立期成会」と刻まれています。

1771年の明和の大津波で村の人口の87%程を失いましたが、黒島から167人を寄百姓し村を再建し、明治まで続いたそうです。その後「伊原間村」へと村の名前が変わります。しかし、平久保半島はフーキィジィマ(風気島、マラリアの多い地域)とも呼ばれた程にマラリアの蔓延地でした。再建した村は、人口が減る一方で衰弱して行きました。そして、1873年には人口わずか38人(船越村含む)となり廃村の危機を迎えますが、辛うじて村は存続します。
昭和25年(1950年)6月、沖縄民政府などの働きかけによって戦後開拓の船越団63名が入植します。入植した方々は沖縄本島勝連村出身の方々です。そして、現在の伊原間が形成されて来たのです。昭和22年(1947年)にはマクラム道路(桃里〜伊原間間)が開削されました。東バスでは、昭和29年3月8日(指令280号)伊原間線が新設され1日1回運行を開始しました。学校は北部地区との統合により小学校は明石小学校に統合されて、現在は伊原間中学校だけです。

伊原間(中学校前)  (東回一周線)

○玉取崎(たまとりざき)展望台

太平洋と東シナ海、そして平久保半島が一望できる展望台です。船越の幅の狭い所も確認出来ます。太平洋側に延々と伸びているサンゴ礁群は「石東リーフ」と言います。沖合1km.程の辺りに、全長35km.程続くリーフは、有名な「グレートバリアリーフ」に次ぐものと言われています。元日の初日の出を見るポイントとしても有名です。山側をご覧いただくと「金武岳」が確認できます。昔、ここから金鉱石が出ましたが金の含有量が少ないので事業にはなりませんでした。
深く、深くボーリングすれば、もしかして・・・・・・?
南の方には、ハイノーラ(南浦)と呼ばれる湾が続きます。昔はこちらで木綿花が栽培されていました。月夜の晩には、木綿花が月光により白く輝き、真っ白い浜のように見えたところから「月夜浜」と呼ばれていました。そして民謡「月夜浜節」が生まれました。

※「伊原間」バス停は2箇所あります。東回一周線・西伊原間線・西回一周線の上り便に乗車される際はこちらのバス停をご利用下さい。

舟越漁港

舟 越  (東回一周線・平野線・西伊原間線・西回一周線)

玉 取  (東回一周線・平野線)

玉取崎展望台
伊原間中学校 伊原間郵便局   伊原間公民館 内村御嶽 

□東一周線はここで折返して下り便となり県道79号線を南下、川平方面バスターミナル行きとなります。

□西伊原間線はここで折返して下り便となり県道79号線を南下、川平方面バスターミナル行きとなります。

□西一周線はここで折返して下り便となり国道390号を南下白保方面バスターミナル行きとなります。

□平野線は止まりません。通過して「新垣食堂」前の「伊原間」バス停で降車できます。