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金比羅坂

東回一周線・平野線 編

● 伊野田(いのうだ)

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バスはゆるやかな坂道を上ります。この坂道は『金比羅坂』と呼ばれています。
金比羅は水運の神ですが、沖縄では信仰がありません。明治25年(1892)頃から、伊野田一帯に本土から多くの人が入植して来ました。その頃、四国・高知県出身の田村家によって、この辺りの東海岸に「金比羅」様がまつられました。人口が多かった頃は金比羅祭も行われたそうです。それに因んで、この坂を「金比羅坂」と呼ぶようになりました。

ここ『野原ア(ヌバレーザキ)』には『野原(ヌバレー)村』がありました。
 その村には「人魚伝説」が伝えられていました。明和の大津波のまつわる伝説です。「ある夜、若者が漁をしていますと人魚が網にかかりました。若者は逃がして欲しいという人魚の願いを聞き入れました。人魚はお礼代わりに、翌朝の津波襲来を予言して海へ帰っていきました。若者は、野原村の住民に避難を勧告し、近隣村の白保にも伝達しますが一笑に付されてしまいます。翌朝、本当に大津波が石垣島を襲いました。野原村の住民は人魚の予言を信じ、高台に避難していたので助かりました。しかし勧告を聞き入れなかった白保村は全滅してしまいました。」という内容の昔話です。

● バス停を設置する際、このバス停の前に四国から入植して来た「徳山」さんの住居がありました。 そこからバス停名を『徳山』と名づけました。
田中牧場

徳 山 (東回一周線・平野線)

元「仲与銘村(ナカユミムラ)」があった地です(現在の伊野田1班辺り)。明和5年(1768年)に白保から寄百姓をして創立した村でした。しかし明和8年(1771年)石垣島近海を震源とするM7.4(推定)の地震により引起された津波が襲来し、人口282人全員が溺死し村は完全に崩壊しました。その後、明治25年頃、奄美大島出身の葛謙栄氏らによって伊野田は開拓されました。しかし、マラリアや台風災害の為中断、頓挫しました。その後昭和26年(1951年)10月に、政府計画移民として沖縄本島大宜味村から入植して来ます。入植当時の人口は138人でした。伊野田共同売店が昭和27年(1952年)に設立しています。現在の人口は140余名程です。
○ 大 野
広大な牧場が目につく集落です。昭和30年(1955年)、伊野田三班の一部が四班として分離後、独立。「大野部落」となりました。地名は部落内にある大野岳から取られました。現在は10余名程の方が住んでいます。
伊野田クルマエビ養殖場 大野牧場

伊野田学校  (東回一周線・平野線)

大野 (東回一周線・平野線)


現存する金比羅様
(車窓からは見えません。)

伊野田オートキャンプ場

● 伊野田オートキャンプ場
  沖縄県初のオートキャンプ場です。10/31まで利用できます。
  問合せは「石垣市公共施設管理公社」 TEL 0980-88-5292 まで

伊野田3班  (東回一周線・平野線)

伊野田2班  (東回一周線・平野線)

野原(ヌバレー)  (東回一周線・平野線)