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字盛山は、轟川の中流付近からから北へ伸びる字です。ここと字平得は、字内が海に接していない地域です。かつて「盛山村」がありましたが、現在は字内に人の住む村はありません。
 盛山村は明和の大津波後に竹富島から移住者で創建された「冨崎村」の人たちが、1785年に再移住して開かれた村でした。しかし、マラリヤの蔓延地帯であったため、人口は次第に減少。1873年には戸数わずか9戸、人口は17名にまで減ってしまいます。白保・宮良・大浜から寄百姓を行い村の存続を図りますが、大正6年(1917)に廃村となりました。
 盛山には「石垣島ゴルフクラブ」がありましたが、新石垣空港建設の為無くなりました。現在は新空港建設現場の見学台が設けられています。
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東回一周線・平野線 編

この辺りには、昔「桃里(トーザト)」という村がありました。この「桃里」は石垣島の東海岸に沿った、南北に細長い村で複数の「字」を持っていました。

桃里村があったところはカラ岳の北側で、現在の大里集落の東一帯だったそうです。桃里村は、享保17年(1732年)に、石垣・登野城・平得・宮良・白保の人びとを移して農業開拓をさせました。その他、異国船監視・難破船の救助等をさせる目的もあったようです。

明和の大津波では、桃里村の被害は軽いものだったようですが、3年程前に作られた村「仲与銘村(ナカユミムラ)」は全滅、村民は全員溺死してしまいました。桃里村自体は、津波による被害はありませんでしたが、風土病の影響もあり、大正3年(1914年)桃里村は廃村となり、182年の歴史に終止符を打ちました。この「桃里」は現在「大字」名となり、大里から伊野田までが区域内となっています。


 
車窓から「カラ岳」が見えてきます。標高136メートルの小さな山です。琉球最古 の地層「トムル層」からなり、樹木は一本も生えていません。王府時代には「火番 岡(ヒバンムリ)」が有ったそうです。海上を監視する役人が駐在して、海上の監視を勤めていたとのことです。しかし、その場所は特定されていません。
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星野共同売店 海のもの 山のもの 

星野 (東回一周線・平野線)

大 里 (東回一周線・平野線)


バスは白保を過ぎ、国道390号線を北上します。こちらからバスは『フリー乗降』となり、バス停以外の場所でも乗り降り出来ます。しかし、カーブの途中や坂道、その他運転手が危険だと判断した場所では停車出来ません。その際は、最寄のバス停をご利用下さい。
 マンゲー山遺跡群

桃里村のあった場所に昭和28年(1953年)に政府計画移民として、沖縄本島大宜味村、羽地村、越来村などから入植してきた人びとによって開拓された集落です。入植当時の人口は116人でした。集落名の由来は大宜味村の「大」、かつての村名だった桃里の「里」を取って「大里」と命名されました。お店が集落内に出来たのは昭和33年(1958年)で、大里共同売店といいます。電気は昭和41年(1966年)に点灯しました。住所は「字白保」となり、現在の人口は106名程です。

昭和25年(1950年)3月、集団移住として沖縄本島大宜味村、玉城村、宮古島から城辺町の方々が入植して来ました。当時の人口105名でした。集落名の由来は当時の大浜町長・星克氏の「星」、八重山民政府知事・吉野高善氏の「野」を取り「星野」と名づけられました。お店は「星野共同売店」が昭和28年(1953年)8月に設立されています。昭和37年12月に自家発電システムを作り昭和41年まで使用していましたが、同年6月に八重山電力鰍ゥら送電が開始されると、自家発電システムは廃止されました。現在の人口は230名程です。
☆ 星野共同売店脇のトイレの上には可愛らしい人魚の像が乗っています。野原アの人魚伝説にちなんだものです。

盛 山 (東回一周線・平野線)

南星野 (東回一周線・平野線)

星野にはマンゲー山があります。ここには「平家の落武者」伝説が残っています。
大マンゲー(ブーマンゲー)は103b、小マンゲー(マンゲーマ)が66bです。この二つの山の間から土器や青磁、勾玉等が出土しています。このマンゲー山は古生層石灰岩(宮良層群)からなり、斜面にはオオバキ、タブノキ、ショウベンノキ等を主要とする森林が生育しています。その他、貴重な古代生物の化石類が発見されていて学術的にも価値のあるものです。
 大マンゲー、小マンゲーは昭和47年(1972年)に、中マンゲー(ヌバルマンゲー)は平成10年に市の天然記念物に指定されました