● 柳田國男の歌碑
バス停から少し離れていますが(徒歩15分ほど)紹介いたします。この歌碑は白保海岸の北側にあります。日本民俗学の父と呼ばれる柳田は、東京朝日新聞社客員として石垣島を大正10年(1921年)1月24日に訪れています(この時、柳田を港で迎えたのが岩崎卓爾(Bで紹介しています)と歴史・民俗学者の喜舎場永cでした。)。
この来島中、柳田は「あらはまの まさごにまじるたから貝 むなしき名さえ なほうもれつつ」と詠み、地元の新聞に掲載されたのです。この旅は、柳田國男の代表著作「海上の道」へつながるものとなりました。ここに建立された歌碑にはこの和歌が刻まれています。
平成13年(2001年)12月16日建立
ばすきなよー入口 (東一周線・白保線・平野線)
白保小前 (東一周線・白保線・平野線)
| 白保小学校 |
白保郵便局 |
マエザト商店 |
民宿マエザト |
| しらほサンゴ村 |
白保食堂 |
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白 保 (東一周線・白保線・平野線)
| 民宿 たぁーづくやー |
史跡 真謝井戸 |
嘉手苅嶽 |
民宿白保 |
白保村(シィサブ)
宮良村と共に歴史の古い村です。1647年の古文書には、宮良村と二村で宮良間切を形成していたようです。明和の大津波当時の白保村の人口は1,574人と多く、当時としては最大の人口数で、交通、経済の面でも重要な村でした。しかし、津波で人口の98%を失い、生存者はわずか28人という大きな痛手を負います。そのために波照間島から418人の移住者を得て、ウィヌージィ(上の地)へ村を移し、近くにあった真謝村と合併したと考えられます。しかし、そこは色々と不便であったため10年程後に元の地に戻ったという経緯があります。津波で埋もれてしまった井戸「真謝井戸(マジャンガー)」を掘り起こされ、村民の生活に大きな役割を果たします。トゥドゥルキカーラ(轟川)の北にあるカラダギ(カラ岳)は海抜136bで、樹木が生えないという意味で「カラダギ(空岳)」と名づけられたそうです。王府時代は、ヒバンムリィ(火番岡)として機能したそうです。海上を監視する役人が駐在し、船を発見すると馬で登野城村の蔵元まで報告に行きました。その早馬の使者のことを「パイチィケー(早使い)」と呼んだそうです。
白保終点 (白保線)
白保中前 (東一周線・白保線・平野線)
※ 白保終点はポケット状の敷地になっています。白保線はここに入り、Uターンして上り便となり今来た道を折り返しバスターミナルへ戻ります。東一周線、平野線はここには入って来ません。
◇白保海岸
白保の海は世界が認めた美しさとサンゴ礁が息づいています。石垣島の東部に位置し、南北10km.程あります。珊瑚はもちろん、多くの魚や貝、エビやカニなど様々な生き物の生息地です。特にここで見られるアオサンゴの群落は世界でも類を見ないものです。近年、地球温暖化のために海水の温度が上がりサンゴの白化現象も多くなっています。地球環境を改善するには大変難しい問題が多くありますが、私たち一人一人が出来ることを自分で考えて実践しなければなりませんね。
