Welcome to Our Company
Products
定期観光バス
Products
Contact us
About us
News
Contact us
Contact us
吉原線・西回伊原間線・西回一周線 編

登野城小学校 海星小学校  大川保育所  八重山高校

登小前 (吉原線・西回伊原間線・西回一周線)

CONTACT US

病院前 (吉原線・西回伊原間線・西回一周線)

○シード線

新川(あらかわ)川に沿って整備された道路をシード線といいます。新川川は二級河川であり3,700メートルの長さです。戦前は「フナーシードー」と呼ばれていました。
「フナー」とは「ウフナー」の転訛で「大きな流れ」を意味します。シードーは「水道」を表します。登野城・大川・石垣・新川は通称、四ケ(シカ)字と呼ばれます。この四ケの農民たちは、このフナーを渡って仕事に出かけていました。しかし、このフナーには昭和初めまで架橋されてはいませんでした。明和の大津波(探訪その4参照)の時は、激流がこのフナーを東から西へ流れ人命を奪ったとの言い伝えが残っています。この川は一度大雨が降るとたちまち増水し、激流となるので渡れなくなることも多かったそうです。架橋されたのは昭和8年から昭和12年のことです。
橋の名称は東から「田原橋(タバルパシィ)」、「小波本橋(クバントゥパシィ)」、「阿武名橋(アブナーパシィ)、「真地橋(マージィパシィ)」、「西真地橋(イーリィマージィパシィ)」、「水名橋(ミジュナパシィ)」、「長間橋(ナーマパシィ)」、「川花橋(カーナパシィ)」、「なたつ橋(ナータジィパシィ)」、「荒引橋(アラピケーパシィ)」となっています。

長間橋 (ながまはし/ナーマパシィ) (吉原線・西回伊原間線・西回一周線)

○ 県立八重山病院

昭和24年(1949)に公共診療を担う「八重山慈善病院」が設立されました。
当時は八重山郵便局の西隣にありましたが、何度かの移転をしており現在の「八重山病院」となりました。昭和55年(1980)3月にこの場所へ新しい建物が完成し、同年4月1日より診療が開始されました。
県立八重山病院 COCO!ストアー
シード店

桟橋通り (吉原線・西回伊原間線・西回一周線)

○登野城小学校

八重山で初めて小学校が設立されたのは明治14年(1881)のことで、「石垣南小学校」と呼ばれました。就学適齢児童は400名余いたそうですが、新しい教科内容に対する反発や子供と言えども貴重な労働力であった為、進んで入学する者は無く、苦慮した学校側は選抜した30名の男子児童を強制入学させたそうです。その後明治16年(1883)に大川村へ移転しました。
明治23年(1890)には「教育勅語」が発布され御真影が下掲されました。
現在の登野城小学校には「奉安殿」が残されていますが、昭和6年(1931)に設置されたものです。戦後、ほとんどの「奉安殿」は撤去・解体されており、現存するものは全国的にも極めて少ないものです。この登野城小学校も「奉安殿」は平成20年(2008)10月、市の指定文化財となりました。


民宿八重山荘  仲間内科クリニック  あいの保育園  ピュアタウン大石  宮良殿内

○宮良殿内(みやらどぅんち/メーラドゥヌジィ)・・・バス停より徒歩5分

文政2年(1819)、八重山宮良間切の頭職であった「宮良親雲上当演(ミヤラペーチントウエン)」が士族の家屋を模して建てた屋敷です。面積は187.3平方メートル、八重山産のイヌマキを使用して建築されました。屋敷の周りには143メートルの石垣を築き、東南には赤瓦葺きの家屋(やーじょう、薬医門)を設け入口にしてあります。庭園は首里の庭園師「城間親雲上」の設計によるもので、「枯山水」に造られています。
 首里王府は寛文7年(1667)に「建物制限令」を発し身分制度の確立を図っていましたが、この「宮良殿内」は明らかに身分不相応に当たりました。八重山在藩奉行は王府へ通達し、取り壊しを2度も命令しましたが当主は屈せず、明治7年(1874)にようやく茅葺に改造されました。その後明治32年(1899)には、この制限令は廃止されたので再び瓦葺になり、今日に至ります。昭和39年(1964)には、石垣市の所有となり、昭和47年(1972)に国の重要文化財に指定されました。