ぺん遊ぺん楽



夢のサンシン弾き語り

   伊良波 盛男
(いらは・もりお)
 


<2007年03/16掲載>

 千葉沖縄県人会主催の集会で出逢った宇根底利夫(八重山出身)さんのサンシン弾き語りを折に触れて思い出すことがある。その純朴な弾き語りが気に入って何度かイベント会場にも顔を出した。そのたびに私は、歌唱技術は音痴派でも結構だからなんとかサンシン弾き語りが出来ないものかと真剣に考えた。
 ところがこの私は、ギターもサンシンも手に持ったことがないのだ。母は若き頃ギターもサンシンも習ったという。そのことを私は六十三年間知らなかった。母の腕前はなかなかのものでたまには流行歌を爪弾くことがある。
 母のはなしによると実父与那覇(波平)隆博がサンシン奏者であった。その遺伝子はそのまま民謡歌手波平重夫にも流れた。彼と私は従兄弟同士である。
 私も音楽愛好家で毎日のように何か聞いている。今最も好みの音楽はアイルランドのエンヤのものだが、その時々の気分次第で、童謡も流行歌も民謡もクラシックも中国の大衆歌もドイツのニューエイジ・ミュージックも日本のヒーリング・ミュージックもお経音楽も楽しんでいる。
 中学時代に仲地重夫先生のオルガン伴奏で宮良長包の代表的歌曲「なんた浜」と「えんどうの花」をはじめて聞いて新鮮な感動を覚えた。ここ近来これらの歌も含めて、宮良長包の子孫にあたるソプラノ歌手宮良多鶴子さんの歌声が好評を博している。
 高校時代に宮古民謡にも関心を持った。住み込みの家庭教師をしていた家の主人が宮古民謡の大御所古堅宗雄だったのだ。私は古堅先生をオジサンと呼んでいたが、このオジサンは、古堅鍛冶屋から帰宅すると毎日サンシンを弾き鳴らし宮古民謡を唄って錬磨を積んでいた。
 オジサンの愛娘トモエちゃんは、宮古の「子守歌」をかわいらしい歌声で唄ったことがあった。そのテープは那覇の某店に保管されている。ある日那覇のバイパス歩道上でトモエちゃんに呼び止められて再会を喜び合ったことがあった。
 現在この宮古の「子守歌」は、来間武男さんもほかの人も唄って人気を呼んでいる。それはそれで尊重しているが、ただの「子守歌」ではなく「宮古の子守歌」にして全国的に売り出したらどうかとこの私は思うのだ。この場合には歌詞の再検討の必要があるかもしれない。この子守歌はムラニ(守姉)の歌であるから、できれば純朴な歌声の娘さんに唄わせたい。
 風狂のサンシン弾き語りになれたら、この「宮古の子守歌」もやってみたい。歌は下手くそではあってもサンシン弾き語りであるからサンシンを弾き鳴らしながら宮古地方のムラニのことなどもヤマトからやって来る観光客に聞かせたいのである。権力者を讃えて違和感のある「池間の主」や「池間民族音頭」や「伊良部タウガニ」や「狩俣の伊佐メガ」や「カナシャガマアーグ」や「多良間シュンカニ」や「豆の花」もいいだろう。サンシン弾き語りによる池間島巡礼も面白いと思う。ついでに、ほんとについでに、公表をさしひかえている作詞作曲のものも披露してみたい。例えば「ミービキ恋歌」は面白いかもしれない。
 ところが、この私にはサンシンが弾けないのだ。音痴は愛嬌があっていいとしても…。私の体内にもサンシン奏者の遺伝子の一滴か二滴は入っているだろうから、サニ(種)の神に一押しされて奮起してみたいとは夢見てみるものの今一つ踏ん切りがつかないのである。

(宮古ペンクラブ会員・詩人)


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