ぺん遊ぺん楽


「亥子」へのこだわり
 
―団塊の世代のことなど―

   下地 康嗣
(しもじ・やすし)
 


<2007年03/10掲載>

 いわゆる団塊の世代というのは、戦後間もない1947(昭和22)年〜49年の第一次ベビーブーム時代に生まれた皆さんのことである。それはまさに平和世の到来を物語る出来事でもあった。1947年は今年の干支(えと)と同じ丁亥(ひのとい)の年である。即ち1947年生まれは還暦(満60歳)を迎える。
 これら団塊の世代は、私の教員生活で特に印象に残る。当時在職していた宮古高校の18期(1963年・昭和38年入学)、19期、20期の生徒たちである。それまで幾分低迷していた進学率が飛躍的にアップしたのがこの団塊の世代である。
 ちなみに、わが国はまさに高度経済成長の真っ只中で、1964(昭和39)年が東京オリンピックの年である。沖縄では祖国復帰運動が大きなうねりとなりつつあった時代。
 教育課程は「生活指向」から「科学指向」へと変換(昭和38年改定)、宮古高校は普通科を文、文理、理科の3コース制とし、進学指導の充実強化を図った。当時の校長をはじめ教師たちの邁進ぶりは並みのものではなく、今にして思えば、まさに猪突猛進的ですらあった。それは「功」のみでなく「罪」も無くはないと思うが、特に問うまい。現在、宮古をはじめ県内外の各界でリーダーとして活躍しているのがこの世代であり誇りに思う人々である。
 ところで亥年といえば、小生には1923年・大正12年・癸亥(みずのとい)生まれの兄や従兄が3人もいる。実兄、義兄(養家の兄)、従兄(本家)である。3人とも先の大戦で徴兵され、学徒出陣を余儀なくされるなど、それぞれの青春は戦禍にまみれた。兄たちに一つ年上の別家の従兄は、沖縄戦で特攻隊員として出撃、23歳の若い命を散らした。
 兄たちは幸運にも命拾いで終戦を迎えた。復員後、結婚もほとんど同時で、それぞれの第一子誕生が、そろって1948年・昭和23年・戊子(つちのえね)であるというのも面白い。団塊の世代の誕生を象徴する出来事といえよう。それぞれ、概(おおむ)ね二つ越しの5〜6人の子を成し繁栄している。ただ現在実兄は存命だが他の兄たちは既に亡い。
 小生は1936年・昭和11年・丙子(ひのえね)であるが、早生まれのため1935年・昭和10年・乙亥(きのとい)生まれと同学年である。ちょうど団塊の世代と兄たちとの中間の世代ということになる。
 表題の「亥子」は「がいし」と読むより、「イノコ」と勝手に呼びたい。亥は猪・豚で、子はネズミであるが、亥と子両方にこだわり、思いを込めたつもりである。
 話が変わるが「飼っていた牝豚が、突然いなくなった。程なくその家に下女が雇われて住み込んだ。すこぶる美人であり、家事一切よくできる。やがて若者がこの女に恋をして、主人の許しを得て結婚した。夫婦ともよく働くから主人は喜んだ。ある日主人から命じられ、夫婦で木の実を集めに行った。昼食後、二人とも草の上で昼寝をした。まもなくして夫が先にめざめて、吃驚(きっきょう)したことには、傍らに寝ているのは妻でなく豚であった、…」中国は唐の世の話である。わが国には「鶴女房」「狐女房」「蛇女房」などの民話があるが「豚女房」の話は聞かない。中国の故事にはこれに類する話がかなりあり、母親や美女と豚がかかわる。
 豚が多産安産系でそのふくよかさ?が重宝がられているのであろうか。
 「子を産む機械」ではないが、古来、子を多く成す女性は家運繁栄をもたらすといわれた。豊臣秀吉と徳川家康とで秀吉の方も子沢山なら歴史は違ったものになっていたであろう。最近出生率が上がっているというニュースを聞いた。朗報である。
 今年は亥年、団塊の世代の再来とまでは行くまいが、世の繁栄を願う。

(宮古ペンクラブ会員)


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